忍者ブログ

毒親からの解毒日記

自己中心的で「暴力はしつけ」タイプの父、浪費家で「私は悪くないわ、気が付かなかっただけ」タイプの母に育てられ、子持ちになって初めて自分の中にあった親からの毒に気が付いたアラサー女の独白です。

セルフカウンセリング開始 5. 心の傷の形

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

セルフカウンセリング開始 5. 心の傷の形

次のワークは、「心の傷を表現する」というもの。これは、自分自身の癒しの第一段階。
思えば、私がこんなひどい家庭にあってもなんとか生きられたのは、絵をかいたり小説を書いたり、漫画を描いたりアニメーションムービーを作ったりして、自分の思ったことや感じたことを何らかの形で外に外に出してきたからだと思う。安全地帯のない私にとって、自分の頭の中に広がる「自分の世界」だけが居場所だった。
しかし、「心の傷を描いてみる」と言われるとちょっと考えてしまった。やがて出てきたイメージがこれ。本当はクレヨンで書きたかったのだけど、手元になかったので高校生のときに身を削るようにして買い集めたコピックで。10年以上も前のペンなのにまだ使えるのがすごい。一本250円~360円もするだけある。高校生当時、同じように漫画やイラストを一緒に描いていた女の子からよく借りたなあ。自分で買えればよかったんだけど、あの頃は私も頭がおかしくて、借りればいいや、と思ってしまっていたので、今思い返すと恥ずかしいやら申し訳ないやら。

描いている途中は、「やっぱり絵を描くのは好きだなあ」と割合明るい気持ちで描いていた。絵を描く、という行為が私にとっては安全地帯、最後に還るところなんだろう。
そうでない人は、悲しくなったり怒りを覚えたりするようだ。



続いて、これを見ながら瞑想するワーク。
物心ついたときから今に至るまでの思い出を思いつくままにすべて書いていく。
私はすでにそれぞれの家族について書いてしまったけど、改めて書いていく。

1歳か2歳くらいのころ。みんなに囲まれてつかまり立ちをしたところを褒められている。今思うと、年齢的に祖父母の家。私は「前から一人でやってたのに、なぜこんなに褒められるんだろう」と思った。
2,3歳のころ、親戚の旅館に行って犬と遊ぶ。緋毛氈の敷いてある階段から3,4段転がり落ちた。父も母もそれを見ていたが、笑っていた。「これって大変なことなんじゃないの?笑ってていいの?」と私は思った。
3,4歳のころ、父が私を放り投げてあやす。天井にぶつかるくらい放り投げるので、私は怖くてたまらず、キャーと叫ぶと、母が「危ないんじゃない?」と止めたが、父は「こいつこれが楽しいんだ!」と言ってもっと激しく投げたり振り回したりした。私は「楽しいと思ってるんだ、楽しいふりをしなければ」と泣くのを我慢した。
同じころ、冬に姉と遊んで来いと言われて一緒にかまくらを作ることにする。姉と姉の同級生と硬くしめた雪を使ってかまくらを積み上げていたが、姉はいつのまにか姉の同級生と一緒にどこかに行ってしまった。その時、好きな人を打ち明けあっていたのだが、私はC-C-Bのドラマーが好きだったのに、姉からチェッカーズのフミヤが好きなんだと決めつけられて「フミヤじゃないのになあ」と思っていた。
別な日、かくれんぼをしていたとき、私が寝室の布団の中に隠れていたら、鬼の姉と姉の同級生が「トリちゃんいないね~~うふふふふふ」と言いながら私が隠れている布団の上で足踏みやジャンプをはじめた。ものすごく痛かったがかくれんぼだから見つかるまで出て行っちゃいけないと思って、声を殺してそのまま隠れていると、姉と姉の同級生はそのまま私を放置してどこかに行ってしまった。
夜、姉が薄紫色でヒラヒラのレースがついたパジャマで寝ており、私は姉のおさがりのボロボロのパジャマだった。姉は「こういうレースや女の子らしいスカートやきれいな服は私にしか似合わない。お前が着ても無駄」と言った。それまでもブスとかデブとかさんざん言われていたので、私は「あのパジャマがおさがりで来ても私は似合わないから着られない」と悲しくなった。
小学校に上がる直前、私は道路に石で絵を描いていた。姉の一つ年上の近所に住むお姉さんがその絵を見て、「トリちゃん上手!4,5歳の子がこんなにちゃんと首も手足もある絵なんて描けない」と言ってくれた。ものすごくうれしかった。それを横で聞いていた姉は、「私の真似をしてるだけ!こんなやつ、上手でも何でもない」と否定したが、その近所のお姉さんは「いや、才能あるよ、真似だったとしても」と言ってくれた。これが私が絵を好きになる一因かもしれない。
また、近所のお祭りに行ったときのこと。姉が両親とお祭りに行き、帰ってきた姉の手にはどんど焼き(地方の棒状のお好み焼きのような駄菓子)があった。次に私が両親とお祭りに行き、私は玉こん(玉こんにゃくを煮たもの)をねだった。すると父は「チッ」と舌打ちをしてとても嫌そうに母に「お前、金あっか?」と聞いた。母もものすごく嫌そうに「あたしだってないよ」と言った。私はその両親の険悪な雰囲気に、自分はお金がない親にわがままを言って困らせてしまった!とものすごく後悔した。結局父がポケットの中からなんとか100円をかき集めて玉こんを買ってもらえたのだが、こんなに後悔しなければいけないのなら、わがままやおねだりはもう言わないと強く思った。ただ、姉が意気揚々と玉コンより高いどんどん焼を買ってもらっているのは腑に落ちなかった。
同じころ、母が「うちにはお金がない、パパはピーターパンシンドローム」と、夜いるときは愚痴ってきたので、うちはお金がないんだ、玉コンを買うのもつらいくらいお金がないんだ、お姉ちゃんはわがままを言って親にお金がなくてもおねだりしてしまうから、私だけでもお金をかけさせないようにしてあげないと、と思った。
また、同じころ、夜にひどく暑かった日があった。私は下着一枚になったが、それでも暑く、のたうち回って暑がった。クーラーがあるので、つけてほしい、と言ったが、母はかたくなにつけなかった。みんな暑いんだから我慢しなさい、と怒られた。私が大泣きに泣いてクーラーをつけてほしいと汗だくで懇願し、30分も泣いてやっとつけてもらった。どうしてみんな暑いと暑くて死にそうな私が我慢しないといけないんだろうと思った。
また、同じころ、母が職場の人の悪口をずっと愚痴るのを一通り聞き、今度は私の話を聞いてもらおうと思って幼稚園での出来事を話すと、ママは忙しいから黙って、と言われた。人の悪口なら聞いてもらえるのかも、と思って幼稚園の友達の悪口を言うと、「悪口は言わないのよ」とまた怒られた。ママは人の悪口を言うのに、どうして自分はだめなの?と聞くと、子どもはだめなんだと言われた。
保育園に預けられると、必ずお迎えが一番最後だった。幼稚園の卒園式、他の子はお母さんと手をつないで入場・退場したが、うちは誰も来てくれなかったので幼稚園の先生と手をつないで入場・退場をした。
食べ物を残すと父から殴られたが、姉はうまく回避した。姉から私が近所の子供たちみんなに嫌われていると教えられたので、一緒に遊んでくれる子に対しても猜疑心が強くなった。
小学校に上がって、子供会や町内会の仕事に父や母が当たると、必ず私もなんらかのことをしなければいけなかった。各家庭向けの配布物があると、母が配るのだが、必ず私も付き合わなければならなかった。ゴミ捨て場の掃除などは私に一手に任された。
洗濯はしてもらえなかったので、一週間をどう下着をやりくりするのか、毎日考えなければならなかった。服も下着も姉のおさがりばかりで、祖母の贈ってくれた服は姉からデザインをけなされ、母から「洗濯しづらい(ネット使用や手洗い表示のものがおおかった)」と言われたためあまり頻回に着られなかった。幼稚園の時に着ていたシュミーズを小学5年生くらいまで着まわしていたが、母から見つかって捨てられた。新しい服がほしいと言っても、母は「タンスにいっぱい入ってるでしょ」と言って取り合わなかったので、それを友達に話したら、友達がおさがりをくれた。家に持って帰ったら母が激怒し、「こんなゴミを押し付けて」と友達の家に突っ返した。そしてコジキだと私をしかりつけた。姉のおさがりばかりで、自分の好みの服を一枚も持っていないのが嫌だったのに、母は私の気持ちを聞くことすらしてくれなかった。
夏休み、放置されていつもカップめんかおにぎりか冷凍チャーハンだった。友達が一人でお昼ご飯を食べる私に同情し、一緒にお昼を食べるよう、家に招いてくれたが、それがばれたらまた母にみっともない、コジキと叱られると思って、秘密にしてくれるように頼んだ。みじめだった。
小学校の時、母がアウターを洗濯するのを嫌がったので、同じ服を一週間ずつきていたら、ホームルームで「同じ服を一週間着てくる子がいる、不潔だと思います」と議題にされた。身の置き場がなかった。
家にいるのが気づまりで、友達の家で絵を描かせてもらい、5時くらいまで家に帰らなかった。
せっかく自分の部屋があるのだから、自分の部屋でお絵かきをしたり、本を読んだりしたかった。でも、お絵かきをしていると父や母が急に部屋に入ってくる(ノックはなく、「入るよ」と言いながら母は急に入ってきた。父は一声もかけず入ってきた)ので、リラックスができなかった。部屋にいるときは自分の時間を大事にさせてほしかった。
小学5年生の時、家族でシンガポールに行った。私はおみやげにかばんがほしいと思っていた。1000円くらいで小さくて、どこでも気軽に持っていけるのがよかった。それで、民芸品を売っているアラブ人の店で「あれがいい」と小さな皮のかばんをねだった。恐らく日本円で1500円くらいだったはずだ。でも、母は「もっといいのを買ってあげる」と言って私の希望を無視した。
後から高級な免税店で、オーストリッチのバッグを母がとても強く進め、買わされた。大人向けのデザインで、とてもとても小学5年生の子どもが持っていきたいようなバッグではなかった。高価すぎて、不織布に包まれて渡されたそのバッグを私は悲しい気持ちで受け取った。アラブ人のおじさんが売っていた気取らない皮のカバンがよかった。母はそのバッグを買った後、「ママに貸してね」と言った。母がほしいバッグを私のお金で買っただけだった。母と姉しかそのバッグを使わなかった。
小学校低学年の時、ついにおさがりでも服がなくなって、やっと母がしぶしぶ私に服を買ってくれることになった。トレーナーを選んでいいと言われたので、白いウサギの柄のトレーナーを選んだら、母が渋った。私が選んだものは少し高めのものだったのだ。母は安いトレーナーから選ぶように言ったが、私はそれを駄々をこねて買わせた。でも、母があまりにもがっかりしているので、とても悲しい気持ちになった。それ以来、進んで値段を確認して、気に入らなくても値段の安いものを買うようになった。
子どものころ、母から私だけの服を買ってもらった記憶は4回だけだ。
一度は、父の実家に年始のあいさつにいくとき。
小学5年生で、祖母からもらったニットのセーターを着ていた。出発の時すでに午後4時を回っていて、かなり急いでいた。私は年始の挨拶に行くのに宿泊を伴うのかどうかもわからずぽかんとしていると、母が「早く車にのりなさい、そのままでいいから」と言った。
「ほんとに?何もいらないの?」と確認すると、母は声を荒げて「そのままでいいからとにかく車に乗りなさい」と言うので、私は上着も着ないままにまったくの手ぶらで車に乗り込んだ。
出発してしばらくして、母は「上着は?」と叫んだ。私は「だってそのままでって言うから」と言うと、母は「バカじゃないの!どうするのよ!どこかで買わないと!」と大声で私をしかりつけた。そしてスーパーで安売りの5000円の大人用のコートを買った。当時身長140センチたらずの私にとって、大人用のコートはブカブカだった。母にはものすごく小言を言われた。でも、そのまま乗り込めと言ったのは母だし、気が付かない母もおかしいと思った。
母からレースのブラウスをもらった。母が若いころ着ていたものだそうで、繊細なレースでキレイなパステルカラーですごくうれしかった。まだすこしサイズが大きかったので、大事に取っておいたら、いつの間にかなくなっていた。母に聞くと、「あれ、人に上げたから」と言われた。
楽しみにしていたのに勝手に奪われた。
また、授業参観のとき、ほとんど来てもらえなかったので、行くと言われてうれしかった。母が今来るか今来るかと待っていたのに来なかった。泣きながら帰った。母は家で寝ており、泣きながら来なかったことを責める私に全く悪びれなかった。
同じころ、家にあるおやつをたべると姉に殴る蹴るされ、食べたいおかしは自室に隠さないといけなかった。でも、姉が一緒に買い物に行ったときに買ってもらったおかしは、自室に隠しても姉から強奪された。殴る蹴るの末、死守したものもあったが、それを食べても嬉しくもおいしくもなかった。
部屋は暖房も冷房も入れてもらえなかった。両方姉の部屋にはあった。冬は窓の内側が凍った。
服や靴下がぼえろぼろになっても、母にねだると「また?」とか「もう?」とかひどく嫌そうに言われ、つぎが「あるはずだから探してみなさい」と言われて新しいものは買ってもらえなかったので、「新しいものを買ってもらう」という選択肢がどんどん遠ざかっていった。
コンクールで賞をとっても、作文が新聞に掲載されても、父も母も無関心だった。切り抜き一つ取っておいてくれなかった。コンクールでメダルをもらったが、それは捨てられていると思う。
小学生が描くイラストや漫画を母がけなして平手打ちしてきたのも耐えがたいことだった。
父は生まれてこの方一度も楽しく家族の会話をした記憶がない。いつも父の気がいつ変わるのかビクビクしていないといけなかったし、同じ空間にいるだけでもストレスだった。
中学校の制服も体育着もおさがりだったのも嫌だった。一人だけブルマなのも死にたくなった。家事を完璧にやっておかないと、私だけ責められるのがほんとうにつらかった。おかげで完璧主義になった。親なんていまだに自分で献立一つ組めないのに。
父が作る生姜焼きが、本当に豚肉にただショウガをまぶして焼いただけのものだった。「これって本当の生姜焼きじゃないよね」と私が言うと、父が怒って「二度と作らね!」と言った。母から「パパを怒らせた」と怒られた。父はそのあとも、ブロッコリーにアブラムシがびっしりついたものでシチューを作り、私がアブラムシの死体がシチューを覆っていることに気が付いて指摘すると私に対して怒り(私に怒ったのではないかもしれないが、ものすごい音を立てて鍋をひっくり返したり、シチュー皿を割れんばかりにシンクにたたきつけたりした)、私は指摘しないでアブラムシを食べればよかったと後悔した。
病気になっても誰も看病してくれないので、なんとか自分で直さないといけなかった。部屋には暖房がないので居間で寝たかったが、居間にいると父も母も疎んじて部屋に行けというので、氷点下の部屋で一人、飲み物も運んでもらえないまま寝ていないといけなかった。
何もかも、自分で、家にあるものでなんとかしなければいけなかった。お金がなかったけど中学校の応援でバスに乗らなければいけなかったので、乗車券をわざとなくし、乗ったバス停を嘘をついて申告して少額しか払わなかったりした。家に食べるものがなくて、仕方なく卵と小麦粉と砂糖と牛乳でクレープを作って食べたら、卵を使うなと怒られた。仕方なくキャットフードを食べたこともあった。

まだまだ出てきそうだけど、今まで出てこなかったことについても少し書けたと思う。

次は、描いた「心の傷」の絵を見、思い出を書き出すワークをしたことで身体的に出てきた心の痛みを意識し、体の動作で表現するワーク。

私の場合、首の周り、鎖骨の少し上のあたりにボールを感じる(抑うつ状態になると出ていた症状)が出ていたので、まずそこを抑え、吐き出す動作から入った。
そして描いた絵の黒いキズからの黒い血が止まり、キズが小さくなるイメージをしながら両手両足を伸ばしたり背伸びをしたり腕を振り回したりした。

最後のワークは、以上の一連のワークをして今どんな気持ちなのか、心の傷がどんな状態になったのか振り返るワーク。
このワークを何度も繰り返すうちに、少しずつ心の傷の状態が変わっていくらしい。
今は少しさっぱりした。そして、今心の傷の絵を描くなら、とりあえず流れ出る血は描かないかな、という感じ。ただ、まだ傷口は開いているし、黒くて深い。これが黒くなくなって中身が満ちたら、私は少しよい人間になっている気がする。

拍手[1回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
トリ
性別:
女性

P R

最新コメント

[11/29 NONAME]
[01/09 k]
[01/09 k]
[01/07 k]
[01/07 k]

ブログ内検索

忍者カウンター