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毒親からの解毒日記

自己中心的で「暴力はしつけ」タイプの父、浪費家で「私は悪くないわ、気が付かなかっただけ」タイプの母に育てられ、子持ちになって初めて自分の中にあった親からの毒に気が付いたアラサー女の独白です。

自分について

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自分について

毒家族の中で育った。簡単に年表にすると下記のとおり。

0歳 誕生。
0歳~2歳 父方の祖父母と同居。
2歳~3歳 母、6歳年上の姉と私を連れ、出奔。
     母方祖母を呼び寄せ、女4名でぼろい借家に暮らす。
     父、すぐに追いかけてきて謝罪し同居。
3歳~5歳 母方祖母、父、母、姉、私の5名で借家に生活。
5歳~6歳 母方祖母、どういうわけか母の姉宅に行くことになり、核家族4名での借家生活。
          姉、小学校卒業、私、小学校入学。
7歳    家を新築。核家族で引っ越し。自室を持つも、両親が部屋に入ってくるので、
     部屋でリラックスできない。人生に窒息しており、希死念慮がある。
11歳   いじめを受ける。
13歳   中学校入学
14歳   中学校の体育着が変更になり、ブルマ廃止、女子はハーフパンツになるが、
     ハーフパンツを買ってもらえず、ただ一人のブルマに。
     このあたりから真剣に家を出たくなる。
15歳   担任より県内1番のトップ校受験を勧められるも、姉の制服がもったいないという理由で
     姉が卒業した女子高を受験させられる。中学校卒業。高校入学。
16歳   父の手弁当を持たされるが、あまりにまずく、貧相でやめてもらう。
17歳   進路選択。隣県に国立のよい大学があったが、
     隣県では家から通学になる可能性があったので、
     新幹線でしかいけない距離の大学を受験することにする。
     将来の夢も何もなく、とにかく家から離れることしか考えなかった。
18歳   ついに一人暮らし。
19歳   ろくでもない男にひっかかり、同棲開始。男は6歳年上でフリーター。
20歳   男に付き合ってゲーセン三昧。一年で単位を16単位しかとらなかった。
21歳   これではだめだと思って単位をきっちり取る。一応就職も決める。
22歳   大学卒業、就職先で働きだすが、16時間労働、残業代なし、経営者が暴力をふるう
     給与支払い遅延という恐ろしい環境だったため、半年で辞職。
23歳   派遣社員として就職。男はまだフリーター。
     このころはもはやヒモ(以後ヒモと記載)。希死念慮がたまに出てくるようになる。
26歳   ヒモにキレて追い出すも、ヒモの母親が危篤となり、情が移っていたこともあって
     同情から結婚することとなる。しかし、出戻っていたヒモの妹に恫喝され、出奔。
     ヒモの家族のほうが猛毒だったので、泣く泣く実家に戻る。
     このころ、実家には父しか住んでおらず、父もタクシー運転手をしていて
     ほとんど家にいなかったので、毒家とはいえ、そんなに苦しまずに済んだ。
     母は隣県の社員寮で一人暮らししていた。
27歳   私の離婚成立。事務所に正社員として就職したが、他の社員との人間関係、
     事業者との接し方ができず、希死念慮がひどくなり休職し、そのまま退職。
     休職したときから心療内科に通い、半年ほどで希死念慮は収まる。
28歳   バイトする。初めて毒親に自分の扱いが不当であることを訴え、実家に住んでいたが
     別な部屋を借りる。
     ほぼ同時に父が母の住んでいたところで週の半分以上を過ごすことになったので、
     毒親と実家でも顔を合わせずに済むようになり、借りた部屋は解約。
29~33歳  事務員として正社員就職。ここでも浮いてしまい、女性グループの標的になる。
     希死念慮がまた再発。職場の産業カウンセラーのカウンセリングを受け、
     なんとかやり過ごす。
     女性グループの所属員が退職や転勤で抜けていき、いじめは解消。
     しかし、男性職員からモラハラを受けたりする。
     なぜ自分ばかり昔からいじめられたり、居場所を作れなかったり、
     浮いた存在なんだろう、ささいな一言で眠れなくなるくらい傷つくんだろう、
     ほかの人が受け流せること、他の人が普通にできることがなぜできないんだろうと
     生きづらさを自覚し、座禅を組んでみたり、登山をしてみたり、お百度参りをしたり
     心が強くなりそうなことをやってみる。
33歳   一生独身で生きていく予定だったが、なんだか一緒にいると楽しい男性と出会い、
     結婚するのかな、という話になったところで妊娠発覚。さっさと入籍して、
     まさかまさかの男児を賜る。夫となったこの男性をイノ、生まれた子をヨウとする。


うちの家族はおかしいんじゃないかな?ということは、「うすうす」気づいていた。
家族がおかしいというか、他のおうちとは違う、ということはずっと知っていた。
でもそれは、うちが共働きでじじばばも同居していないし、姉も年が離れているから、よそのうちと違って大人がいないだけなんだと思っていた。
保育園、幼稚園のころからずっと私は集団の中で浮いていた。
保育園では、昼寝を絶対にしない子供として保育士さんに迷惑をかけた。
昼寝してしまうと、夜眠れなくなる。夜眠れないと、父からも母からも怒られる。
だから昼寝をしなかった。保育士さんが母に「トリちゃん、寝ないので困ってるんです」と言うのを聞いて、とりあえず寝たふりをすることにした。でも一度も昼寝しなかった。
どうしてほかの子が夜のことを気にせずに眠れるのかわからなかった。
5歳になる年、年中からになるが1年間幼稚園にも通った。保育園に母が私を預け、保育園から幼稚園に通う、という通学方法だった。幼稚園に行くと、「くつの右左」とか、「人からものをもらわない、くれるようねだらない」ということを幼稚園のお友達から教えてもらった。父からも母からも祖母からもそんなことを教えてもらったことがなかった。はずかしかった。思えば、しつけらしいしつけをされたことがない。ご飯を残すと殴られたが、「ご飯を残す」=「殴られる」なので、「ご飯を残す」=「もったいない・作った人に申し訳ない」という認識がなかった。なので、幼稚園では食べられなければ残した。
小学校では、低学年のうちは楽しかった。同じくらいの年の子が近所にいて、かなりの年齢幅の中でみんなで遊ぶことが多かったので、家族が私に構ってくれなくてもよかった。むしろ家の中にいる方が小学校の時は気づまりだった。友達の家にもよく行った。
でも、どこで何をしていても窒息していた。息ができなかった。これから中学生になって、高校生になって、大学生になって、大人になって仕事をして、家庭をもって、父や母のように家に帰ってこられないくらいに働く。死ぬまで。そんなことできない。
小学2年生のとき、ああもう今日死のう、と思って登校した。小学2年生の教室は2階。
ここから死ねるだろうか、もっと上に行った方がいいか。放課後にやろう。
でも、なぜか担任の先生が、いつものような普通の授業をその日に限ってしなかったのだ。
みんなで15少年漂流記の話を読み、外に行って写生し。そういうイレギュラーで楽しいことをその日やった。それで私はその日大いに笑い、こんなに楽しい日もあるなら、もう少し大きくなってから死のうと思った。
高学年になると、自分が遊びに行く友達の家の人から迷惑がられていることがわかるようになった。それはそうだ。しつけされていない子が、朝から大声で自分の家の子を呼び、家に上がり込み、冷蔵庫を開け、おやつを食べて家じゅうの部屋に入り込む。どこの家でもお断りだ。
やんわりそういうことを伝えられ、ショックを受けた。それからはなるべく自分の家で遊ぶようになった。でも、母が準夜勤や夜勤、たまたまの休日で家にいるときに友達を家に入れて遊んでいたら、うるさいからうちには友達を入れてはいけないと言われた。
それでも遊んでくれる友達はいて、よそのご家庭の方にやんわりとしつけてもらいながら、家に帰らない小学生をしていた。
私は当時、とにかく成績がよく、貧乏そうな見た目も手伝ったのか、教員受けがひどくよかった。絵を描けば表彰され、テストがあればどの教科も軒並み100点で、作文は文集に載る。とにかく何をしても高く評価された。
結果、同世代の子たちに対して上から目線でものをいうけど、大人を味方につけるので逆らえない、鼻持ちならないしつけされていないクソガキが出来上がった。
母も成績表を見ては満足した。褒められたことはない。「あらそう」くらいのものだ。
母は私が夏休みの宿題を初日に全部終わらせていたことすら最近知った。

そんな子に、まともな友達はできない。また、家族は週に一度しか洗濯をしなかったので、私は一週間、同じ服を来て学校に通っていた。一度、帰りの会で、「毎日同じ服を着てくる子がいる。汚いからやめてほしい」という議題があげられた。私のことだった。私は母が「何回か着たくらいでは汚くない」と言っていたのを妄信していたので、その時は「なんてことを言うんだ、汚くないのに」と思った。その場は担任の女の先生が「おうちにいろいろな事情がある場合もあるから、そういうことは言わないようにしましょうね」と言って終わった。
この出来事を思い出すたびに死にたくなる。この件についてはまだ母に返してないので、なるべく早いうちにお返ししようと思う。
性格の悪さも手伝って、「死ね」という手紙をもらったり、無視されたりといったいじめを受けるが、当然だと思う。私もまともな子供ならいじめるかかかわらないようにする。

中学校でも、不潔でしつけされていないけど、何をやらせても数字的には文句なしなので、誰も手が出せない子供のまま育った。それでも友達になってくれた子がいたのはすごいことだ。
まあ、小学校から友達だと思っていた子から「くっついてくるのやめて。利用価値があったから友達のふりしていただけなんだから」と言われたりもしたけど。

小学校高学年からの思春期になって、もう一刻も早く家を出たいという思いが強くなった。
これは、父親が急に部屋に入ってくるのも耐えられなかったし、母が私の部屋中を荒らしまわって、私が描いた漫画やイラストをあざ笑うのも嫌だった。お小遣いというものをもらえなかったので、ノート一冊、イラスト用のペン一本買うのも死ぬ思いだったのも嫌だった。それ以上に、自分に暴力をふるう両親のいる家にいて、ずっと身を固くしていることにつかれていた。
14歳のある日、階段のわきの窓から外を眺め、「高校まではどうしてもこの土地から離れられないから、18歳までの我慢だ」と思ったのをよく覚えている。それから毎年家を出るまであとどれくらいなのかカウントしていた。

高校でも性格はそのまま継続。鼻持ちならない女子高生。でも、友達はできた。今でも親友と呼べるのはこの時代できた友達。
大学。やっと一人暮らし。でも1年でろくでもない男と同棲。
ここまでの人生で、友人も作りづらいし、「自然とそこに自分がいる」という状況になったことがなかった。部室にいても、教室にいても、家にいても、どこでも自分は歓迎されていない気がした。「確かにそこにいる権利はある。でもいてほしくない」と世界中から言われている感じ。
一人暮らしになって、自活すればそれは解消されると思っていた。居場所のなさは、とにかく一人になるためにとりあえずでそこにいるだけだからだと思っていた。

しかし、社会人になって、あまりの生きづらさに愕然とした。
やはり友達はできないし、仕事の厳しさというものについていけない。ちょっとした注意も心に刺さる。女性たちは群れて私の悪口を言った。そして私はどこの群れにも入れなかった。
転職してもそうだった。なんだこれは?明らかに不当ないじわるをされたり、誤解されて仲間外れにされたりもした。なんだこれは??????
会社勤めに向いていないのかも、と思って、好きでもなくなっていたがずるずる同棲していた彼氏と結婚して家に入った。でもその婚家でもうまくいかなかった。同じような問題がおこった。
離婚して職を探し、堅い職についたものの、またボロボロになってしまった。
私はついに希死念慮が強くなり、死に場所を探すようになった。桜がきれいな時期だった。横に死神がいた。どうしてこうなんだろうと思いながら近所の道路を歩いていた。本当に桜がきれい。たんぽぽもきれい。道路の割れたガラスの破片も、電信柱も、どこかの家に柿の葉もきれい。それなのに私はこの世界に生きていられない。こんなに美しい世界の中に、私の居場所はない。どこにもない。
すれ違う人がぎょっとした顔で私を二度見することが多かった。すっかり狂人の様相だったのだろう。でも、そのおかげで自分がきちがいだと自覚した。精神病だ。
死ぬくらいなら、恥も外聞もなく、やるだけやって、それでもダメだったら死ぬことにしようと思った。せっかくだからと、ホームページを調べて、居心地がよさそうな待合室の心療内科に電話してみた。柔らかい声の女性が出た。自分が精神的におかしいので予約を入れたいんだ、というようなことを言ったと思う。女性は、「どうされました」ととても優しく言った。私はとにかく死にたくてたまらないということを言おうとしたが、そのとき声より先に涙が出てきた。
私は声を詰まらせながら、「死にたくて…」と言った。
女性は慌てて、すぐに予約の空きを調べ、「23日が直近になってしまう。でも、とにかくこの日に予約を入れるから、それまで絶対に死なないでほしい、この日になる前にどうしても死にたいと思ったら、またすぐに電話してください」ととても真摯に言った。私は涙が止まらず、ただ「うん、うん」と言い、名前を言った。ここでカウンセリングを受けたおかげで、私は一度持ち直した。
でも、そのあともやはりあらゆる場面で生きづらさを感じることになる。

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