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毒親からの解毒日記

自己中心的で「暴力はしつけ」タイプの父、浪費家で「私は悪くないわ、気が付かなかっただけ」タイプの母に育てられ、子持ちになって初めて自分の中にあった親からの毒に気が付いたアラサー女の独白です。

毒父の金銭感覚

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毒父の金銭感覚

毒父は、吝嗇だ。むしろ「せこい」「がめつい」という印象。

安ければ安いほどいい、という気持ちがあるらしく、安っぽくてゴミにしかならないようなもので用を足す。これは昔から今までもずっとだ。キッチン用品やパソコン用品、ガーデニング用品など、すべて100円ショップで買ってくる。もちろん、100円ショップのものでも便利で長持ちするものもあるが、父の場合は、「もう200円出せば長持ちして、便利な機能がついていたり、何をするにも楽な工夫がしてある」というようなものばかり買ってくる。そして「長持ちしない、安いのはやっぱりダメだな」という。でもそれを捨てずに使い続ける。

他にも、家を建てたり、リフォームするにしても、少しずつ変なところをけちる。
風呂場に換気扇をつけても、洗濯乾燥はできないタイプにして冬場は居間に洗濯物を干さなければならなくしたり、お湯張りを台所からリモコンでできるようにしても風呂場との通話ができないものにしたり。ほんのちょっとだけお金を余分に出せばどんなに便利になるか、という部分をあまさずケチる。そして不便だ不便だと文句を言う。車にしても、もう2万円出せばナビがつくのにつけず、「あの車はナビがないから不便だ」などと言い出す。いい加減にしろと思う。
そのくせ、テレビで見た数百円の便利アイテムをアマゾンでみつけて、送料1000円かけて買う。
赤帽の車を勝手に買ったのも、会社を通して買うより、自分で安い車を見つけて買った方がお得だとこざかしく考えたからだろう。

一番父がせこいと思ったのは、小学校5年生のときの陶芸教室でのことだった。
地元には有名な窯があり、小学5年生の時、課外活動として焼き物を焼くというのがあった。
父はその行事を知って、私に「さんま皿を作りなさい。何もいじらないで、もらった粘土をただ平べったく伸ばして、縁だけ少し立てたものを2枚作りなさい。粘土が余ったら箸置きを作ること。それもただ粘土を5センチくらいに切って、真ん中をねじるだけでいい」と命令した。
私はこの陶芸教室で、幼稚園の時の陶芸教室のときの失敗を取り返そうとしていたので、がっかりした。しかし父に逆らうと殴られるのがわかっていたので、渡された土を2ブロックに切り、ただただサンマが乗るくらい平べったく伸ばし、縁を作って適当な色を選び、ほかのクラスメイトたちが思い思いにコップや皿、怪獣の置物などを作っているのを眺めた。ひどくみじめだった。自分もコップを作りたかった。幼稚園の時、ハート形のお皿を作ったのだが、色の番号を間違って好みでない色に焼かれてしまった。今度こそ自分がこれと思った色でつくり直したかった。
焼きあがって、嬉しくもなんともなくもって持って帰ると、父はこれでさんま皿が4枚そろったと喜んだ。姉も父に同じように指図され、2枚のさんま皿を作らされていたのだ。
そんなもの買っても数千円、娘の陶芸教室の思い出の方がよほど価値があるだろうに、父は思い出を汚して数千円を手放さずに済んだわけだ。

思うに、父が急に私の部屋に夜入ってくるのも、私が電気をつけて本を読んでいることが耐えられなかったのが一因だと思う。電気代が無駄なので、一刻も早く寝させたかったのだろう。
ノートも新しいものは使えなかった。父や母が使った大学ノートでまだ余白があるものを、不要になったページを破って、残ったものを使わされた。中学校や高校の教師は、なぜ私のノートだけ薄いのか不思議だったろう。

しかも、自分のほしい高価なものにはお金をふんだんに使う。例えば車。3年ごとの新車の車検がくるたびに、新しい新車に買い替えた。また、健康器具にもお金を使い、足踏みマシンや腹筋を鍛えるための器具など、倉庫に所狭しと入れてある。「倉庫に所狭しと入れてある」ことからもわかるように、買って数週間(数ヶ月ももたない)はちょっと使ってみるものの、すぐに「これはここが自分向きではない」と文句を言いだして使わなくなる。
釣り道具や大工道具も、はんだごてやよくわからない機器を買い込む割に、一度も使っているところを見たことがない。キャンプ用品も一通りそろえていたが、バーベキューコンロは3回しか使用せずさびついた。テントもかなり高価な家族用の大きなものがあったが、カビさせて捨てたという。
私が小さなころは、大型のバイクもあった。一度も乗せてもらったことがなかった。車庫にずっと置いてあったが、父が乗り回す姿も見たことがない。憧れて買ったはいいが、数回乗ってやめたのだろう。ちょっと続いた趣味は釣りだけだった。

母が私の小さいころに、「うちにはお金がない、パパがお金を入れてくれない」と泣きながら私に愚痴っていたので、借家にいたころは父はお金を家計に入れていなかったのではないかと思われる。まあ、母も頭がおかしいので、どういうことを指して愚痴ったのかはわからないが。
新築の家に引っ越してからは、父が夕食を作ることが多くなり、買い物がよく母とかぶった。
朝のパンや牛乳など、無くなったことが分かりやすいものが特にかぶった。使うスーパーも同じだから、特売の安い野菜や豆腐もよくかぶった。ちゃんと連絡しあったり、役割を最初から決めておけばいいのに、父と母は直接会話せず、なんとなく空気を読みあってなんとかやっている他人同士だったので、ほんとうにこういうことが多かった。そのたびに父は血管を額に浮かせてイライラと「これもかぶった!あれもかぶった!どうするつもりだ!捨てるしかない!」と怒鳴ってふてくされた。
たくさん同じ野菜があったからと言って、ちょっと工夫すればなんとかなる。パンも牛乳も少しくらい賞味期限を過ぎたからと言って途端に腐るわけでもない。実際に、賞味期限をすぎて、パサパサになったパン、一部がカビたパンをカビたところをちぎって捨てて焼いて食べることなんて、私にはよくあった。特に小学生のころだ。うちにあるおやつは姉のものであり、私が勝手に食べると姉から殴られた。余分にパンが買ってあるときはラッキーで、パンにジャムを塗って食べることができた。朝、朝食を用意してもらえなかったので、そういうことを一人でやっていた。
それでも、父と母はよく野菜を腐らせ、豆腐をだめにした。両方とも料理ができないからだ。家の冷蔵庫のありあわせのもので何かを作るとか、たくさん買ってしまったものを大量に消費できるように工夫するとか、そういうことができないので、例えば大根がかぶってしまっても、今日はカレーにするから、じゃがいもとにんじんを買ってきて、大根は放置、しかもカレーだから2,3日大根はほったらかし、ということが次々に起こる。そしてすっかりしなびて食べられなくなった大根を捨てることになる。父は激怒。恐ろしいのは、それがほぼ毎週繰り返されるということだった。無駄だ無駄だ、金を捨ててるようなものだと父は怒鳴った。でも母と相談してこれを解決しようとは絶対にしなかった。
私が中学生になると、土曜日は弁当を持参しなければならなかった。また、高校では給食がないので、毎日弁当か購買で売っているものを買い食いするかの2択になった。母は仕事にしか興味がないので、仕事を理由に父が弁当を作った。この弁当も、材料をケチったのがよくわかる恥ずかしい弁当だった。毎回卵と湯がいただけのほうれんそう、プチトマト、運が良ければウインナーや冷凍食品の鶏のから揚げが1個だけ入っていた。たいていは、ちくわにキュウリを指したものがウインナーやからあげに変わって入っていた。あとは白いごはん。ごまさえふられていない。ふりかけもない。卵焼きはいつも適当に作られているらしく、パサパサしていて硬く、卵の殻が入っていたり、砂糖がとけきらず、ジャリ、と砂糖の塊を噛んだりした。この弁当のおかげで、私は高校を卒業してから自分でお弁当を作るようになるまでの10年間、卵焼きを食べられなくなった。
作ってもらえるだけ感謝しなければ、という人もいると思うが、自分で作ると、その方がましだと思って申し出たこともあったのだ。でも、弁当を作るためには、それこそちょっと夕食を別にとっておいたり、のりであったり、弁当に入れられるような具材というものが必要になる。それらを一切させてもらえるわけでもなく、ただ「今日からお前が弁当を作るんだな、さあ作れ」と放りだされて、私はおにぎりしかできなかった。勝手に食材を好きに使えば、また殴られると思った。結局父に頭を下げて作ってもらうしかなかった。
その弁当があまりに嫌で、高校2年生になるとき、母に頼んでお小遣いをもらい、購買部で買うのを許してもらった。母はかなり嫌がったが、月に一万円を昼食代とお小遣いを兼ねてもらえるようになったことはとてもありがたかった。
中学になるときも、制服を新しく買ってもらえなかった。体操着は姉のときとはデザインが変わっていたので、一組だけ買ってもらえたが、制服はだめだった。姉のおさがりのテカテカでぼろぼろの制服を着た。
高校も、もちろん姉のおさがりだった。中学の時よりも思春期を迎えて恥ずかしさが強かった。入学式のあと、父が迎えに来たので、制服が一人だけぼろぼろでとても恥ずかしかったと言ったら、後から新しく制服を作ってくれたが、言わなかったら作ってもらえなかっただろうし、言う前に作ってほしかった。
ちなみに、高校については、実際は私はもう一つレベルが上の高校に入れる学力があった。それは、県内1の進学校で、制服がブレザー、でも普段は私服も可、という高校だった。でも、親はそれでは制服が無駄になると言って、最初から姉と同じ高校しか選ばせてくれる気はなかった。私はそれを感じていて、「お前もそれでいいだろう」と言われると、うんとしか言えなかった。それに、私には私だけの服というものがこのころ一着もなかったので、私服で通う高校になんて行けなかった。まあこれらの衣類の問題は、母にも責任があると思う。母にも、姉にも衣類の件では別に書く。

本当に父を軽蔑したのは、出戻った後のこと。
私が何気なくハンコなどが入っている引き出しを開けると、なんと私の名義の貯金通帳が出てきた。10万くらい入っていたのが、残金3000円ほどになっている。私は使っていない。
父がそれをぱっと取り上げ、「この通帳、俺が飲み代に使ってっから」と言った。
その通帳は、私が小学校の時に積み立てしていたものだった。衝撃だった。
まさか娘のための積み立て貯金を勝手に飲み代にしているとは。

そして、イノと結婚して話をしているとき、「トリは金がかからなかった」という話になり、「姉の方は滑り止めの大学の入学金をがっつり持っていきやがったからな」と言った。
耳を疑った。父の言い分では、「だってお前ほしいって言わなかったもん。ラッキーと思って飲んだ」。
高校の時も、姉は滑り止めに入学金を払ったが、私は払われなかった。これは、恐らく落ちることはないだろうと思われたのは一つだが、お金がもったいない、という親からのプレッシャーがあって、一応払ってほしいということを口に出せなかったのだ。大学の時などは、まず私は滑り止めを受けたいとすら口に出せなかった。本当に大学は一発勝負、もし不合格だったら、私はお先真っ暗だった。ぎりぎりのところで運よく受かっただけだったのに。
それを、「私が言わなかったせい」で「無駄なお金を払わなくてすんで」、「お酒をたくさんその金で飲んだ」という。父親を吐き気が出るほど軽蔑した。子どもの将来より自分が酒を飲む方が重要なのだ。

また、父は酒器をコレクションしているのだが、その大半が飲み屋さんからくすねてきたものだと言うのも軽蔑している。父は料亭などに行ったときも、小皿をくすねたりしていたらしく、一個しかない小粋な小鉢なども、たまに使ってはどこそこの店から取ってきた、と自慢げに言う。一度「ヨウの前で泥棒自慢をするな、最低の人間のやることだ」と言ったら、大きな声では言わなくなった。

ちなみに、父にお金がなかったのかというと、少なくとも55でぷいと会社を辞めるまでは、あっただろうと思う。会社では専務まで行ったのだし、そんなに小さな会社ではなかった。ただただ、自分以外の家族のためにもなるものにお金を使うのが嫌だったのだろう。
父は自分が稼ぐすべてのお金を自分のためにまず使いたかったのだ。

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