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毒親からの解毒日記

自己中心的で「暴力はしつけ」タイプの父、浪費家で「私は悪くないわ、気が付かなかっただけ」タイプの母に育てられ、子持ちになって初めて自分の中にあった親からの毒に気が付いたアラサー女の独白です。

すべてが救いの手であるという思想

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すべてが救いの手であるという思想

大学生の時から、西遊記にはまった。少女漫画の「最」遊記ではなく、本当の、呉承恩が書いたとされるほうの西遊記。昔からこの西遊記における孫悟空というサルが好きだった。だから、村上知行氏が訳した上下巻の西遊記を買って読んでいた。手塚治虫の「僕の孫悟空」も、文庫本を全巻買って読んだ。何度読んでも、西遊記という物語は変幻し、つかみどころがない。
日本では、悟空の冒険は大体において三蔵と出会うところから始まる。そして金角と銀角、牛魔王と羅刹女とやりあって、天竺にたどり着いたりたどり着かなかったり、というところで終わる。
でも実際、呉承恩が書いた西遊記は、悟空が石ざるとして生まれ、修行の末に72通りの技を身に着け、天界で大暴れするところから始まる。そして、日本の西遊記では、三蔵と悟空、そして八戒と悟浄が4人で力を合わせて苦難を乗り切るが、もともとの原作では、観音菩薩がめちゃくちゃ手を貸してくれる。そしてまた、4人が受ける艱難辛苦は実は菩薩の差し金だったり、魔物が実は菩薩が変化していたものだったりする。
それを何度も読んでいるうちに気が付いた。菩薩とは、すべてなんだと。
どういうことかというと、例えば悟空を病気にする魔物がいたとする。そして悟空は病気にかかり、まんまと三蔵をさらわれる。でも病気の悟空がそれでも三蔵を助けようと力を尽くすと、それに手を貸す神さまや妖精が現れる。悟空は新たな力を得たり、人間の心を一つ学んで成長する。
ここまでの中で、悟空を病気にした魔物も菩薩、がんばってなんとかしようと奮い立った悟空に手を貸す神や妖精も菩薩、と言うことができる。菩薩は悟空に学ばせるために、あえて試練を与え、また、救ったのだ。
これに気が付いたのは、菩薩というのが同時的に多数存在する、という仏教の思想をどこかで聞いたからだ。三十三観音というのは、33人の菩薩であり、また、ただ一人の菩薩であり、同時的に存在する、というのだ。
だから、自分を悟空に置き換えてみて、ものすごく理不尽なことや、つらいことがあったり、誰かにひどい目にあわされたとしても、その相手もまた菩薩なのだ。私を一つ成長させるためになおそんなひどい役回りをしているに過ぎない。

そう思うと、ヒモの妹からされたことも、それらをたしなめてくれたヒモの祖母たちのことも、全部菩薩のやったことということになる。そして確かにそれらのことがあったおかげで、自分は少し強い人間になった。
それからも、この「すべて菩薩」という思想は、本当に誰かのことを憎むようになったとき、少しだけ私の心を楽にするようになった。
毒親と姉のことも、もう少し私が解毒できたらそう思えるようになるかもしれない。あるいは、私の子を普通に育て上げることができたら。

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