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毒親からの解毒日記

自己中心的で「暴力はしつけ」タイプの父、浪費家で「私は悪くないわ、気が付かなかっただけ」タイプの母に育てられ、子持ちになって初めて自分の中にあった親からの毒に気が付いたアラサー女の独白です。

赤の他人に支えてもらうこと

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赤の他人に支えてもらうこと

私が離婚してから、家族も私をお荷物として扱い、どこにいても針の筵の日々が始まった。再就職をなんとか自分を奮い立たせてやって、でもそこにも居場所はなく、この世に生きているのは何かの間違いだという思いが頭の中を満杯に支配していた。どう死ねばいいのかばかり考えていた。山の中で首を吊るのは、死体の発見が遅くなるから嫌だった。それに、地元は山菜がどこに行っても取れる山ばかりなので、たまたま山菜取りの人に見つかって死に損なったりして、さらに後遺症でも残ったら最悪だ。父が仕事のときを見計らって自宅で死ぬことも考えたが、父もたまに仕事の途中で家に寄ることがあるし、勤務が不規則なので確実に一人になれるかわからなかった。
どこかのビルから飛び降りることも考えたが、そのビルに自殺者が出たビルとして悪評がつくのが申し訳なくてダメ。最終的に、車に乗って湖に車ごと飛び込むのがよかろう、と考えた。
でもその車だって、持ち主は父だった。父に次の車を買えるくらいのお金を残さないと死ねない。

今思うと、言い訳をして死ぬことから逃げていたのだと思う。でも、とにかく働いてお金を稼ぐまでは死ねない、貯まったらそれを親に渡して死のうと思っていた。
このころ、結婚して引っ越し、離婚して2か月ほど引きこもって、その間に住民税やらを払ったりしていたら、貯金額は100万を切っていた。7,80万は稼がないと軽自動車も買えない。
お金を稼ぐには働かなければいけない。働くためにはまずこの精神状態をなんとかしなければ、どこも面接なんて通らない。ずっと死ぬことを考えているなんて、どうかしてる。生物としての本能に反している。病気だ。お医者にかからなければ…

それで、いろいろな心療内科を見て、ホームページを眺め、一番リラックスできそうな待合室の心療内科に電話した。何月何日に来てください、と言われると、とにかくその日まで生きようと思えた。心がしんどくなったとき、今のこの精神状態をきちんと記憶しておいて、何が引き金でどういう心境になったのか、次の診察の時に話そうと思えた。
これはたぶん、その心療内科の先生が「うつ病です」を乱発する先生でもなく、5分で診察を終わらせる先生でもなかったおかげだ。私は抑うつ状態と診断され、休職するための診断書を書いてもらってとりあえず身も心も休む大義名分をもらえた。薬も処方されたが、本当のうつ病の人なら笑ってしまうような低用量のものを出された。その先生は、毎回10人は待合室に待っている状態でも、私の話を最低20分は聞いてくれた。今思うとすごいことだ。そして、そのほかに1時間くらい、毎回ソーシャルワーカーの人と話をした。このソーシャルワーカーの人との面談も私を救った。このソーシャルワーカーの人は、私のことを一つも否定しなかった。私を意思のある、強い、自立した、そして今は少しだけ疲れている人間として扱ってくれた。仕事を辞めてから、医師の診察は月に一度となり、ソーシャルワーカーの人との面談が月に2回になった。
いろいろな話をした。最初は、職場のことについての愚痴ばかり聞いてもらっていた。職場の人と仲良くなれない。所長との接し方がわからない。仕事ができない。何をやっても間違っているような気がする。でも、自分が間違っているとは実は思えないんだ、だって私がどんなろくでなしでも、車で所長を送る途中で道路の真ん中に降ろされて放り出されたり、自分が受けたそういう仕打ちを新入りの女の子に話したらその子が出社拒否になってしまったのを私のせいにされるのはおかしいと思う。職場の人は全部私が悪いと言って私を無視したり聞こえよがしに悪口を言ったりしたけど、そんなことが起こることがまずおかしいと思う、でも、私は自分を正当化したくてそう思い込んでいるだけかも。そういうことを切々と話した。泣きながらの時もあった。
でもソーシャルワーカーの人は、それは職場がおかしい。大丈夫。そういう環境にあって、自分の置かれた状況を客観的に間違ってると思えるのがあなたの強さだ、と言ってくれた。
やがて、離婚した時の話にもなった。この離婚の時も、ヒモは私のヒモとして6年もゲーセンのフリーターをやっていて、生活費の8割を私が持っていたのを実家に隠しており、私がヒモのアパートに転がり込んでヒモに養ってもらっていたという話を実家にしていたため、ひどい目にあった。私はヒモをたぶらかしてヒモに貢がせていた女、という色眼鏡で見られ、元ヤンのヒモの妹から目の敵にされた。私が大学を出ていることも、ヒモの家族の不興を買った。ヒモの家族は低学歴で、ヒモの両親は高卒、ヒモの妹は中卒だった。ヒモは私立の大学を中退した。そんな中で、国立の大学を卒業し、両親も姉も大卒で、「子どもが生まれたら学資保険とかも考えないといけないですよね」と何の気なしに言ってしまう私は最低の人間にうつったらしい。私に面と向かって「大卒の人間なんてろくでなしばっかりだ。大学を出ただけで出世だけして、人間ができていない」と言い放つヒモの父が信じられなかった。ヒモもヒモの妹も同意見らしかった。ヒモの妹は特に、主婦として家をきりもりしていたプライドが私が家事を担当することによっていたく傷ついたのもあって、嫌がらせをたっぷりしてきた。私の上着をゴミ箱に捨てられたり、財布を盗んだと濡れ衣を着せられたりした。最終的に「出ていけ」とこの元ヤンから胸倉をつかむ勢いで言われ、ヒモもヒモの父も私の味方をしないばかりかこのすでに嫁に行っていて子供もいる元ヤンの肩を持ったのでもうだめだと思って家を出て実家に戻った。ヒモは私が私の友人と親しくするのを嫌がり、私が能力不足で何の仕事にもつけない無能だと何度も何度も刷り込んだ。そういうことがDVだと知ったのは後のことだ。でも何度もそういわれるうち、本当にそんな気になってしまうのだ。でもそういう環境であっても、うまくやれる人はうまくやれたのではないか。私がダメな人間だから、我慢できなかったんじゃないか。親だって、我慢しろと言って、私が出戻ってくるのを「出戻ってきちゃったんなら仕方ない」という受け止め方をした。
大丈夫、とソーシャルワーカーの人は言った。その家はまともじゃない。むしろそんな家に嫁いでしまったあなたに戻って来いと言わない家族が不思議。

それで家族の話になった。支えてもらえていると思うこともある。でも、小さいころから家を出たくてしょうがなかった。姉はこんな心療内科のお世話になっている私に死ねと言った。父も母も直接は言わないが、私にいなくなってほしいみたいだ。なぜなら、姉の部屋は残しているのに、私の部屋は母の買い集めた本の置き場になっていて寝ることもできなくなっているから。私は姉の部屋を借りている。気を使って家にいるので落ち着かない。家を出たいと思っている。

ソーシャルワーカーの人は、それはひどい。そんな家族なら、家を出ることに賛成する、と言った。そして、私にはそれができると思う、と。

ここまでのソーシャルワーカーさんとのセッションは半年かかった。でも、おかげで私は母からうつ病なんて甘えだと言われても、姉から死ねと言われても、「次の面談まで生きてこの話をする」と思うことで生きることができた。
このソーシャルワーカーさんこそが、この時期の私の「安全地帯」だった。この人には元気になって、ちゃんと就職して、家庭をもって幸せになったら改めてお礼の手紙でも書きたい、と思っていたら、私が通っていた心療内科がいきなりなくなってしまい、今ではどこにいるのかわからない。でも、恩人の一人だ。この人がここまで「ソーシャルワーカー」という枠を超えて、私の話を聞いてくれたおかげで、私は私という人間が一つの力を持ち、感情を持ち、意志を持つということを確認することができた。本当に感謝している。

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