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毒親からの解毒日記

自己中心的で「暴力はしつけ」タイプの父、浪費家で「私は悪くないわ、気が付かなかっただけ」タイプの母に育てられ、子持ちになって初めて自分の中にあった親からの毒に気が付いたアラサー女の独白です。

家族の中での立ち位置

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家族の中での立ち位置

うちは、父、母、姉と私の4人家族として大半を過ごしました。というのは、私の記憶にはないのですが、私が2歳くらいまでは父方の祖父母の家に同居しており、その後母が家を飛び出して母方の祖母を呼び出し、母方祖母、母、姉、私の4人で暮らし始めたところに父が頭を下げて転がり込んできて、5人で生活していたからです。
私が物心ついたとき、母方祖母(ババラと呼んでいた)と父、母、姉との5人での生活でした。
どういう話し合いがあったのか、ババラは私が4,5歳のときに母の姉の家(県外)に行き、核家族4人での生活になりました。
住んでいたのはとてもぼろぼろな借家でした。風呂場がトタンでできており、隙間から雑草が生えてきました。冬は雪も吹き込み、寒くてとてもじゃないけど洗い場で髪を洗うことができず、湯船につかったまま頭だけを出して洗髪しました。シャワーはありませんでした。
6歳の時、家を新築することになり、家族で引っ越しました。このとき自分の部屋が持てることになったのはとてもうれしいことでした。のちにこの自分の部屋というものが苦しくなるわけですが。

父と母は子供ながらに不仲に見えました。怒鳴りあうということこそありませんでしたが、仲良く二人が話している姿を見た覚えは全くありませんでした。父は家に帰ってくると、食事だけ一緒にとり、あとは自室にこもっていました。
母は看護師をしており、ほとんど家にいた印象がありません。たまにいると、泣きながらどんなに父が父として役割をはたしていないのかを私に愚痴ってきました。「パパはピーターパンシンドロームなの」と母は幼児の私に言いました。父が家にお金を入れないため、貧乏なのだと聞かされました。姉はそういった母の愚痴を聞かず、寝たふりをしていました。

私は家族の中で、唯一誰ともうまくやっている人だと思ってきました。
父は自分の世界に閉じこもりたがる割には誰かが話しかけてくれるのを待っているようなところがあり、姉は父には一切話しかけませんでした。父はとてもいじけた性格で、何か話しかけても必ず否定的な言葉が返ってくるので、好んで話をしたい人物ではなかったのです。
母も父にはなるべく触れないようにしており、食事ができたときに父を呼びに行くのは私の役割でした。私は家族の嫌われ者の相手をしなければならなかったのです。
逆に言うと、私しか父に話しかけなかったので、父は私を好んでいました。
ただし、父は食事を残すと私をひどく殴りました。だから私は自分の中の恐怖を押し殺して父に話しかけなければなりませんでした。

姉もそんな調子の父母に接することにつかれていたのでしょう、家の中では私をささいなことで殴っていました。また、わがままで「嫌なものは嫌」とはっきりと意思を表明するため、父も母も扱いづらい子供だという認識だったようです。姉の愚痴もだいぶ母から聞かされました。
でも、二人きりになると姉はそこそこ話しやすく、父よりはましでした。

したがって、私は母のカウンセラーであり、父と家族の橋渡し役であり、姉のサンドバッグでした。アダルトチルドレンの定義でいくと、マスコットであり、ケア・テイカーだったわけです。

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