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毒親からの解毒日記

自己中心的で「暴力はしつけ」タイプの父、浪費家で「私は悪くないわ、気が付かなかっただけ」タイプの母に育てられ、子持ちになって初めて自分の中にあった親からの毒に気が付いたアラサー女の独白です。

毒母からの虐待

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毒母からの虐待

父は直接的な暴力が多かったが、母は精神的に傷つけてくるタイプだった。

まず、母は家にいるときはいつも寝ていた。家事はババラがするか、ババラがいなくなってからはどうしてもやらなければならなくなってからしかしなかった。「どうしてもやらなければならないとき」というのは、母自身の下着や洋服が足りなくなったときであり、姉や私の服がどうなっているのかは彼女の感知するところではなかった。だから私はしばしば下着が足りなくなり、穴の開いた小さくなった下着を引っ張り出して着たり、同じ下着を二日続けて着たりしなければならなかった。小学生に上がってからは、自分で洗濯することも増えたが、うちの洗濯機は私が中学生になるまで二層式で、冬は手を冷たくして凍えながら脱水機に洗濯物を詰め込まなければならなかった。

小さなころは、それでも母が大好きだった。母と一緒に眠れる夜は本当にうれしかった。母はたくさん話をしてくれた。大半が父への愚痴であり、職場のだれかの悪口だったが、それでも自分に話をしてくれているということがうれしかった。でも、私の話は聞いてくれなかった。母は人の悪口ばかりいうので、私もお友達の悪いところを見つけて母に話すのだが、母は「人の悪口は言わないのよ」という。混乱した。そして幼稚園であった出来事を話すと、うるさがってしゃべるのを辞めさせられる。何を話したらいいのかわからなかった。母はすぐに「ママは疲れているから静かにして」と言って寝てしまった。私は母に構ってもらいたくてしかたがないのに、母が疲れていてかわいそうだからと音を立てないように遊んだり、外に遊びに出たりした。

母の愚痴は、父が子供だ、ということと、姉がわがままで困る、ということも多かった。だからお前が頼りよ、ママの味方よ、と繰り返し言われ、涙を流す母に同調して私ももらい泣きしたりした。でも、翌朝になると、その父や姉と母は仲良くしている。これもまた混乱した。
ある夜、トイレに行きたくて目を覚ますと、同じ部屋に寝ているはずの姉も母もいなかった。トイレに行くために居間の横を通ると、姉と母が居間で私の悪口を言って盛り上がっていた。
ものすごく傷ついた。私だけが味方と言っていたのはなんだったのか。

また、父のことをぼろくそに母は言うが、その父の対応を私にやらせるのも本当に嫌だった。母が嫌だと思う人を、しかも私を殴りつけてくる怖い父の相手をなぜ私に押し付けてくるのか。なぜ私が平気で父に声をかけたり、父と遊んだりできると思うのか。
私が借家に住んでいたころ、姉と私は寝る前に父にキスしないといけなかった。
これが本当に本当に本当に苦痛だった。なぜやらないといけないのか。
父はずっと喫煙者で、口がくさかった。しかも普段から気分屋で、いつ殴られるか、怒鳴られるかわからなかったから、できる限り近寄りたくなかった。本当に嫌だった。
でも、そのキスを促すのが母だった。さあ、パパにチューして寝なさい、と母は言った。拷問だった。母だって父が嫌い、なのになんで私たちにこんなことをさせるんだろう?
でも当時は4歳とか5歳だったから、やらない、いやだと言えなかった。
姉が中学生になって、この拷問はなんとなくなくなったが、本当に嫌だった。
思えば、こうやって姉と私に父に奉仕させることによって、父の機嫌を取っていたのだろうと思う。最低だ。

そして、保育園に入ってからも、母は私を迎えに来なかった。いつもいつも私はお迎えが来る最後の子供だった。何度も8時くらいまで迎えが来ず、店じまいできない保育士さんからの視線に耐えなければならなかった。
幼稚園の行事も母は仕事を理由に来なかったので、私は卒園式も、他の子がお母さんと手をつないで誇らしげに入場・退場する中、幼稚園の先生と手をつないで歩いた。写真ももちろんない。みじめだった。小学校に入学して、授業参観というのがあったが、母が来たのは2回ほど。保護者会には参加したことがない。小学4年生のとき、「今日はママ、夜勤だから授業参観行けるよ」と言われて有頂天で学校に行った。でも、母は待てど暮らせど来なかった。
涙をためて家に帰ると、母は例によって寝ていた。「ママ、授業参観終わっちゃったよ」というと、母は「ごめん、寝ちゃったあ」と言った。

また、子どもの病気も、母にとってはただ煩わしいものだった。
小学3年生の時、嘔吐して目が覚めた日があった。
シーツに吐瀉物がつき、体は重く、吐き気は止まらなかった。とりあえずシーツをはがして居間に行くと、父が起きていた。私はシーツを洗面台で洗いながら、怒られることを恐れ、吐いちゃって、ママに言うから。と言った。父はそうか、そうしなさいと言って会社に行った。
母が起きてきて、私は朝吐いたこと、体調が悪いことを伝えると、母はひどく迷惑そうな顔をした。「そんなこと言われても仕事があるから困る」というようなことを言い、とりあえず登校の時間まで様子を見ることになった。そんな20分30分で容体が変わるわけもないのに。
そしていよいよ登校の時間になったとき、母は「大丈夫ね、学校行きなさい」と言った。
その30分間に吐かなかったから、ということらしい。
私はその時またものすごい吐き気がきて、トイレに走ったが間に合わず廊下で吐いてしまった。
ちょうど母が出勤しようと廊下に出たところだったので、私は母と目が合った。
「ママ…」と私がやっと言うと、母は「それ片づけて学校行きなさいね」と言って出勤していった。
私は泣きながら床を拭き、ぐちゃぐちゃの顔のまま登校した。一番最初の出欠確認のとき、担任が私の異常に気付き、即座に帰宅させた。学校の滞在時間は15分だった。
当時の学校は子供が早退しても親に連絡ということはなかったのではないかと思う。
連絡しても父も母もつながらなかったのかもしれない(実際に小学2年生の時に事故にあったとき、両方に連絡がつかず警察の人が付き添ってくれた)。
家に一人で帰り、食べるものもないのでお昼ご飯も食べず、ただ横になって眠っていた。
地獄だった。
それからも、熱があったり、頭痛があったりしても、一度も看病というものをされたことがない。
仕事を休めないから、と言われて放置されたが、大人になってみて、休めないわけがないことを知った。有給というものがあるし、子どもは体調を崩しやすい。子持ちの女性が、時間休を取って少し抜けるだけということすらできないなんてこともない。ただただ子供の世話が煩わしかったのだ。

母のやってきたことは長くなったのでもう一記事別に作成する。

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