忍者ブログ

毒親からの解毒日記

自己中心的で「暴力はしつけ」タイプの父、浪費家で「私は悪くないわ、気が付かなかっただけ」タイプの母に育てられ、子持ちになって初めて自分の中にあった親からの毒に気が付いたアラサー女の独白です。

毒母からの虐待②

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

毒母からの虐待②

母はとにかくなんでもめんどくさがる人だった。
また、子供に関することは「子供を話題にする」こと以外は何も関心がない。
子どもが大人の振る舞いをして自分の役に立っていれば御の字、子どもが子供らしい失敗をして自分の手を煩わせるのはストレス、という人だ。今でもだ。子どもの扱いがわからないのだ。

姉と母と、三人でレンタルビデオショップに行き、帰りに31アイスを買って帰ったことがあった。
ビデオを見ながら寝るのは母の趣味なので、レンタルビデオには昔からかなりお世話になった。
31アイスは当時、たまにかなり溶けている状態で出てくることがあった。私はその日、チョコミントのアイスを買ってもらって、車の中で食べなさいと言われて姉と車に乗り込み、紙のパッケージをはがしたら、ポタポタと溶けたアイスが足に流れた。私は動くと余計にアイスが落ちると身を固くして、「お母さん(ティッシュを取って)」と声をかけると、母は私を一目見て、「この子はわざとこういうことをするんだ」と怒った。
その時の精神的な衝撃はちょっと忘れがたい。目の前がチカチカするほど驚いた。
アイスが足に垂れて、不愉快な思いをして、車を汚してしまうという状況を、私が、わざと
なぜやらないといけないのか?私が買ったばかりのアイスをわざと温めて溶かして母の手間を増やそうとあえてしたと言うのか?なぜ?なぜ?なぜ???????????????

そして母は、お金がないお金がない、と呪文のように繰り返し、お菓子一つ買うのも、「えー…買うの?買わないとダメ?」という反応だったので、私はうちには本当にお金がないんだ、お菓子一つ買うのも難しいくらい大変なんだ、と思い込んでいた。父もこの反応は同じだったので、私はうちが本当に貧乏で、なんとか節約をしないといけないと必死だった。ぼろぼろの服でも仕方がないと思ったし、お菓子も諦めたし、誕生日のプレゼントやクリスマスプレゼントも値段を見て考えた。
でも、今思うと、母は看護師で有給一つ取らず、夜勤も準夜勤もフルで入っていた。子供のために日勤を増やすとか考えない人だった。父は父で、こちらも有給一つ取らず、黙々と仕事して、年功序列の時代であったこともあって昇格もしていたので、一般の家庭以上に収入はあったはずなのだ。子供のためにお金を使うのが惜しかっただけだ。


また、母は私の将来の夢を奪うことにかけては実に余念がなかった。
母は人を治したいとか、癒したいとか、そういう志で看護師になったのではなく、当時女性がつける職で看護師という職業が一番安定していたから看護師になった。これは何度も何度も言われた。なりたくてなったわけではない、他になかった。金を稼ぐためだ。人を治したいとか世話したいとか一度も思ったことはない、看護師なんかなるもんじゃない、と。看護師の仕事は大変で大変で仕方がない。絶対に看護師なんかなるもんじゃないと呪文のように聞かされて、看護師にだけはならないようにしようと小さいころから思っていた。
幼稚園では、卒園式の前に将来の夢を桜の形の色紙に書いて、木の枝の形にくりぬかれた紙に一人ひとり貼り付けるというのをやった。
他の子は「お花屋さん」とか、「お嫁さん」が多かった。私はその課題を出されて、母に「こんんどこういうのをやるんだ、お花屋さんていう子が多い。お嫁さんて書く子もいる」と言ったら、「お花屋さんなんて安定しない。お嫁さんなんて、生活できない」と言ってハナで笑った。
私は花屋さんと書きかけていたが、その時「お花屋さん」「お嫁さん」「看護婦さん」のほかに知っていた唯一の職業、「とこやさん」と書いた。
でも、母は私が「とこやさん」と書いたのを知って、「とこやさんなんて生きて行かれないでしょ」とまた否定した。私は将来の夢というものがわからなくなった。
この「将来の夢」というのは、小学校でも何度か尋ねられ、書かされる。
小学校4年生のとき、またこれを聞かれ、その時親友(だと思っていた)女の子に聞いてみると、「安定していて楽そうだから、公務員」と答えた。公務員というのが何をする人なのかわからなかったが、安定していて楽そうならそれでいいと思い、「公務員」と書いた。担任の先生から「あまりにも夢がない」と言われた。母も同じ反応で、公務員もだめなのか、と思った。
小学2,3年生のときから、私は漫画を描いていた。小学5年生の時、家で飼っていた猫を擬人化してチラシの裏に描いた漫画が、クラス内のみんなに評価された。
みんなって、みんなだ。私とほとんど話をしたことがない子にまで私のそのチラシの裏に描いて、ホチキスで止められた漫画を読んだ。エピソードごとに何冊もあったので、みんなそれぞれの巻を休み時間ごとに交換して回し読みした。つまんね、という子ももちろんいたが、ぶつくさ言いながらもみんな全部読んだ。すごいことだった。私はそれで、漫画家になりたいと初めて本当に本当の夢を持った。
で、家で漫画を描いていると、母がそれを見つけた。「漫画家になりたいの?」と母は私に聞いてきたので、私は「うん、本当になりたいんだ」と言った。
すると、母は私の書きかけの漫画を取り上げ、「何この顔。なんでこんなに目が離れてるの?へたくそ。こんなので漫画家になれるわけないよ」とけなしだした。私は泣きそうになりながら、「でも、これからもっと上手になるかもしれないし」と反論したら、母はなんと私に平手打ちして「漫画家なんてなれるわけない!馬鹿な事言ってるんじゃないよ!」と言って怒って部屋を出て行った。私は泣いた。母には漫画家になりたいことは秘密にしなければならないと思った。
それからは、自分の部屋で夜中にこっそり漫画を描くようになった。でも、電気をつけていると父が急に部屋に入ってくるので、布団を頭からかぶってルームライトを布団の中に引き込んで書いた。それでも父が急に入ってくるので、いつでも耳をそばだてて緊張しながら漫画を描いた。足音や父が父と母の部屋のドアを開けたらすべてを仕舞って寝たふりができるように。
父と母の部屋と私の部屋は隣同士で、ベランダがつながっていたので、私の部屋の電気がついているとベランダが明るくなってしまい、起きていることが両親にバレたのだと思う。
1,2分で鉛筆と消しゴムと漫画を描いているノートを枕の下に隠し、電気を消して寝たふりをする。毎日が戦いだった。
小学6年の時、また将来の夢について作文するという課題が出た。しかもこれは、地元の新聞社にうまくかけた4名の作文を掲載する予定というおまけつき。私は漫画家とはかけないので、「童話作家」と書いた。すると、なぜかそれが掲載されることになってしまった。
それを母に報告すると、母は「童話作家?そんなもので食べていけるわけないでしょう」と言った。せっかく掲載された新聞も読んでくれなかった。
大きくなるにつれて、漫画家になることの難しさが理解できるようになってきた。また、漫画家になっても、好きなストーリーを好きなだけ書くということはなかなかできないのだということもわかってきた。好きなものしか書きたくない私は、漫画を描くのは趣味にした方がいいかもしれない、と思い始めた。でも、だからと言ってほかになりたいものも見つけられなかった。
あれもだめ、これもだめで、適当な会社に適当に務めるのが身の丈だと思い始めていた。なら、何の資格もいらない。資格なんか取っても、母のようにその職業に資格のために縛り付けられて、あんなにイヤイヤ言いながらも務めないといけない。

そして私は何の役にも立たない学部を、ただ一人暮らしできるという理由だけで選び、何の資格も取らず、ただただ卒業した。くず人間の完成だ。
くず人間になったのは、親のせいばかりではないかもしれない。私がもっとちゃんと独立について考えていれば、資格を取ることによってセイフティネットを自分の人生に張ることができることに気づいたかもしれない。でも、自分で考えた将来像を物心ついたときからすべて否定されて育ったことは、箸にも棒にも掛からぬくず人間の育成には重要なファクターだったと思う。

母からの虐待はまだあるので、もう1記事続く。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
トリ
性別:
女性

P R

最新コメント

[11/29 NONAME]
[01/09 k]
[01/09 k]
[01/07 k]
[01/07 k]

ブログ内検索

忍者カウンター