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毒親からの解毒日記

自己中心的で「暴力はしつけ」タイプの父、浪費家で「私は悪くないわ、気が付かなかっただけ」タイプの母に育てられ、子持ちになって初めて自分の中にあった親からの毒に気が付いたアラサー女の独白です。

毒姉からの虐待②

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毒姉からの虐待②

私が田舎くさいズドンとした体型、つながった太いまゆ、薄汚れてくたびれた服装をして男の子のようなショートカットで成長している間、姉は服を買い与えられ、きれいな長い髪をハーフアップにし、ピアノ教室に通っていた。そのころ、男の子は野球、女の子はドッジボールを地区対抗でやる球技大会があったこともあって、小学生以下の子供たちはひまがあるとドッジボールの練習をしなければならなかったが、このドッジボールという球技はいじめの温床だった。ボールを持った人がボールをぶつける人を選べるんだから。
私は姉に連れられてこのドッジボールの練習にも参加したが、的扱いになるか完全にいない子扱いになるかだった。姉が中学生になっても、姉と一緒になって私を避けていた子はまだ小学生だったりして、「あの子はいじめてもいい子」という認識が広まっていることもあり、引っ越しをして所属地区が変わるまでずっといじめられていた。石をぶつけられることもあった。これらはひとえに姉の私に対する印象操作が奏功した結果だと思う。
それでも守ってくれる子や、「トリちゃんは小さかったから仲間に入れなかっただけ」と理解してくれていた子も少数いた。それを思うと世の中捨てたもんじゃない。

しかし姉はこういう印象操作がものすごく上手だった。母がうまく人を操るのと同じだ。この印象操作は私をして、愛してくれた祖父母を嫌いにさせた。私に姉はある日、父方祖父母は母と自分をいじめたから、母は父方祖父母が大嫌い。母を苦しめた人たちをお前は好きなの?と言ってきた。私は正義感にかられ、母にいじわるをした祖父母を嫌いになった。
祖母がたまに孫の顔を見に来てくれるときに姉と私に服を買い与えてくれたが(祖母は私が汚いおさがりの服ばかり着ていたのでかわいそうに思ったのだろう)、その服を趣味が悪い、誰も来てない、ダサいとけなし、着づらくさせた。今思うと、祖母が買ってくれた服は高島屋の上質な服で、シンプルで品がよかった。姉は祖母が私のために姉妹に服を買ってくるのを見抜き、嫉妬や憎しみから私にその服を着せないようにしたのだろうと思う。

また、ボロい借家にいたとき、ちょくちょく私は近所のおうちに遊びに行っていたのだが、姉から「今日も○○ちゃんの家に行くの?○○ちゃんはトリのこと嫌いだって言ってたよ。◇◇ちゃんもだよ。トリはみんなから嫌われてるから行かない方がいいよ」と言ってきて、それ以来一緒に遊んでいた子たちに対して疑心暗鬼になり、誘われない限り遊びに行けなくなった。

新築の家に引っ越した時、姉は中学2年生、私は小学2年生だった。姉は反抗期真っ盛りで、ご飯は茶碗の半分しか盛らない。おかずが多すぎると私の皿に盛る。私が食べきれなくて父に殴られても知らんふりだった。そして、家にある買い置きのおやつを私が食べると私を殴ったり蹴ったりした。だから私は買い置きのおやつを食べることはできず、お菓子が食べたいのであれば、母と二人だけで買いに行ったときにねだって買ってもらい、部屋にしまっておかなければならなかった。うっかりそのままにすると、姉が勝手に私が買ってもらったおかしを食べつくしてしまう。「トリのおかしだって書いておかないのが悪い」とのことだった。買い置きのおかし=すべて姉のものだった。母に訴えると、「二人で食べなさい」としか返ってこなかった。
そしてこのころになると、洗濯も週に一回は私がしており、姉が制服の夏服にはアイロンがかかっていないと嫌だというので、それも私の仕事になった。
私は新築の家に引っ越してから、お風呂の掃除も私の仕事として割り当てられていた。
小学校の低学年から洗濯、アイロンがけ、風呂掃除をやらされ、姉の方は何の割り当てもなかった。不思議だった。
姉の受験期には、イライラしてときどき叫び声をあげたり、学校に行かないと言って部屋にこもる姉の面倒も見た。姉の様子を伺いながら夕食がいるかどうか尋ねたり、夜食を運んだり、コーヒーを入れてやったりした。姉はピリピリしていて、本を投げつけられたり無視されたりした。
辛かった。何が不満なのかわからなかった。私は習字を1年ほどしか習い事というものはやっていないが、姉は習字とピアノを小学校卒業までやった。ピアノの発表会にも出て、ドレスを着てピアノを弾く姉のホームビデオがうちにあった。これは父と母は見に行ったらしい。私は幼稚園の卒業式さえ誰も来てくれなかったのに。
姉はテレビ局主催の海外旅行に小学5年生のときに参加させてもらっていた。大学に入ってからも親にお金を出してもらって海外に一ヶ月の短期留学をした。
私はそれらはなく、高校生の時に市から補助金が出る交換留学に2週間行っただけだ。この交換留学は、試験を受けて合格しないといけないもので、倍率は20倍だった。しかも、受験するときは父に土下座して補助金で賄えない分のお金を出してもらうお願いをした。
姉は私から見ればわがままで自己中な面倒な女だった。
でも、本当にしんどかったのは私が大学生になってからのことだ。
姉から週に一回くらい、ものすごく長い電話がかかってくるようになった。1時間とか2時間とかだ。
何を話してくるのかというと、いかに自分たちの家が崩壊しており、自分が虐げられてきたのかということだ。
お前ばかりじいちゃんばあちゃんにかわいがられて、というのから始まり、一人暮らしを始めたとき、お前だけ圧力なべを持たせてもらった、差別だ、とか、私の服をいずれあんたに譲らないといけないのが嫌だった、お気に入りの服も小物も全部あんたに譲らされた、とか、そういうことを延々と言う。
たしかに私は父方の祖父母に大変愛されていたが、それは私にはどうすることもできない。
圧力なべも父か母が結婚式の引き出物としてちょうど私が一人暮らしを始めたころにもらったもので、たまたま手元に来たにすぎない。お下がりの服も小物も、私から言わせてもらえば全部願い下げだった。姉と私は趣味が合わないのだ。お金がないし私は服を買ってもらえないから、どうしようもなくて姉のおさがりの服を着ていただけなのだ。
しばらくその愚痴に付き合って相槌をうつ日々が続いたが、ある日あまりに眠い時にその電話がかかってきて、寝ぼけながら話を聞いていたら、「あんた、真面目に聞いてないでしょ!もういい!」とブチ切れられ、電話は終わった。

その後、姉が結婚してからのこと。私は夏、実家に戻っていた。そのとき母に言われて姉に電話をかけたか何かした。たぶん、お盆に戻ってくるのかどうか、姉に電話で聞いてみてと頼まれたのだと思う。父も母も姉が苦手なので、姉に関することは昔からすべて私に丸投げする。
その時は、姉は父も母も異常で、我々がアダルトチルドレンであること、我々が小さいころ受けてきたしうちや育児方法はDVであり、ネグレクトであることを切々と話してきた。
これは頷けることも多かったので、真面目に聞いた。姉は私の思っていたよりひどい目にあっていた。
姉は見た目がかわいかったので、幼いころからトロフィー扱いされ、どこでも連れまわされていた。私が2歳か3歳くらいのとき、父の社員旅行にも付き合わされたそうだ。母は行かなかったので、そのころ8歳か9歳の姉が私の面倒を見させられたらしい。しかも、私の面倒を見つつ男湯に入らされたそうで、かなり嫌だったらしい。それはそうだ。性的虐待だ。父の頭も母の頭もおかしい。
また、新築の家を建てるときも、父の買った土地は何かの規制にひっかかっていて、本来は家を建てられない土地だったらしい。その規制変更のための嘆願書を当時小学6年生だった姉が書かされたそうだ。例によって母の「タエの方がママより作文上手でしょ?」によるらしい。
父方の祖父母のところにいたときも姉は抱いてもらったことはなかったらしい。祖父母が私に会うたびに抱き上げられ、大きくなった大きくなったとかわいがられるのが恨めしかったそうだ。
姉が結婚する時も、父も母もあらよかったね、勝手にすれば、くらいのノリで絶望したそうだ。
まあ、普通はお祝いをしたりなんだりする。結局姉が旅館を手配し、お祝いの席を設けたようだ。結婚してすぐ、姉は義理の両親と険悪になり、母に泣きついたようだが、母は例によって「あら大変ね、がんばって」で終わったらしい。
この電話の時、姉ができたから二人は結婚せざるを得なくなったこと、父にはその時ほかの女性がいたらしいことを聞いた。また、姉は私ができたときのこともよく覚えていた。
父と母は、姉も無計画に妊娠したくせに、私のことも無計画に妊娠したらしい。馬鹿すぎて開いた口が塞がらない。
そこで、降ろすか、という話になったそうだ。姉が「妹がほしい」と訴えて、降ろすのをためらっているうちに腹が膨れ、私が生まれてしまったという寸法だ。母に私を妊娠中の時のことを聞くと、姉が母のおなかを蹴ったことしか話さないので全く知らなかった。
姉との電話を終えて、母に直球で「私って降ろす予定だったの?」と聞いてみると、母は「タエに余計なことを吹き込まれて!本当に産まなきゃよかった!あんたたちなんて産まなきゃよかった!」と言って泣きながら部屋にこもった。

その後、姉は妊娠してちょっと実家に帰ってきたこともあったが、姉の世話は私に丸投げだった。姉はそのことでも傷ついたらしい。そのころちょうど私が離婚し、身も心もボロボロで半分うつ状態で実家にいたときだったので、姉から「両親があれならあんたもあんたよね。あんたみたいなのが妹だと恥ずかしいから死んで」ときっぱり言われた。涙をこらえながら姉のために車を運転したのを覚えている。その後も今度は私が子どもを妊娠して実家に戻ってきていた時に姉も帰郷し、パソコンでその日の特売品を調べたり、ネットサーフィンをしている私に、「一日中ネットゲーム(私はしてない)ばっかりしてみっともない」とか「料理の一つも作れなくて終わってる(私は作れる)」とか初産で臨月で身動きの取れない私に言ってきていた。
ネットゲームを一日中しているのは父、料理の一つも作れないのは母である。
姉は両親に言わなければいけないことを私に言って気分を晴らしているのだ。
たぶん、幼いころからそうだったんだなあ、と思った。両親に対する不満、両親に対してぶつけたい気持ちを全部私にぶつけていたのだ。

曲がりなりにもカウンセラーなら自分で気づいてほしいものだ。私に対する不満、私に対する文句はすべて両親にこそ向けるべきだと。

ちなみに、このとき私が臨月で姉は第二子を妊娠中、つわりまっさかりだった。両親はそんな状態の娘たちを放置して車の一つも出さず、たまに来れば娘が作った食事を貪り食って帰っていった。姉はもう少し両親があてになると思っていたらしく、「お母さんもお父さんも来るんでしょう?次いつ来るのかしら」などと言ってきたので、「あの二人が自分の用事がない時にわざわざ気を使わないといけない妊婦が二人もいるところに来るわけないでしょう。だからもう来ないと思うよ」と言ったら、ショックだったらしく絶句していた。

繰り返すが、姉はカウンセラーだ。彼らが毒親だということも認識し、自分たちがアダルトチルドレンだということも自覚しているはずだ。それなのに、なぜまだ彼らをあてにするのか。
カウンセラーを職業にするということと、その知識をもって自分が癒されるかということは別なんだなと思う。

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